詩篇68篇

指揮者のために。ダビデによる。賛歌。歌。

68:1 神は立ち上がりその敵は散り失せる。神を憎む者たちは御前から逃げ去る。

 神様が敵に対してどのような方であるかを始めに歌っています。神が立ち上がるときには、敵は散り失せます。敵とは、神を憎む者たちのことで、御前から逃げ去ります。

68:2 煙が追い払われるように追い払ってください。ろうが火の前で溶け去るように悪しき者が神の御前から滅び失せますように。

 そのような神の偉大な力を踏まえて、ここでは、祈りになっています。悪しき者が煙が追い払われるように追い払ってくださるように、また、ろうが火の前で溶け去るように亡失せるように祈りました。

 このような祈りは、冒頭に言い表した神の御名を信じてのことです。

68:3 しかし正しい者たちは小躍りして喜ぶ。神の御前で喜び楽しむ。

68:4 神に向かって歌い御名をほめ歌え。雲に乗って来られる方のために道を備えよ。その御名は主。その御前で喜び躍れ。

 しかし、正しい者は、非常に喜びます。小躍りし、喜び楽しむのです。「御前」という言葉によって、肉的な喜びではなく、神様に関しての喜びです。そのことは、「御名を褒め歌え」という言葉からも分かります。その御名に関しては、二つのことが歌われています。一つは、「雲に乗って来られる方」です。天の主権者で、天から来られる方であり、この地においでになられる謙られる方です。それで、その方のために道を備えるのです。その方の前にふさわしく歩むのです。

 「その御名は主。」と明確に示されていますので、これが中心的な御名と言えます。「主」の意味は、存在者を表します。また、モーセにご自分の主という御名について「約束を履行する者」と説明しています。

68:5 みなしごの父やもめのためのさばき人は聖なる住まいにおられる神。

 ※ここからは、神の御業が比喩によって記されています。

 神は、孤児の父また、やもめの裁き人として示され、寄るべのない弱い者にも目を注ぎ手を差し伸べる方であることを示しました。

 聖なる御住まいにおられることは、俗なる者とは分離していることを表します。人の基準ではなく、神の基準によって事をなされる方です。「神」は、支配者を意味します。御自分の主権によって事をなさるのです。その偉大な方は、神殿におられるのです。人のところに臨在されるのです。それは、神の謙りを表しています。

68:6 神は孤独な者を家に住まわせ捕らわれ人を歓喜の歌声とともに導き出される。しかし頑迷な者は焦げつく地に住む。

「家」、これは、聖なる御住まいのことです。一人ぼっちの者に神の聖なる家に住ませることを表しています。そのようなところに神が臨在され、ともにおられることの比喩です。

 囚われ人を「繁栄に」導き出されます。囚われ人であることは、繁栄のない状態です。

 頑迷な者は、反抗的な者のことで、神に従うことをしない者のことです。そのような者は、焦げつく地に住みます。そこは、水である御言葉のないところであり、命のないところです。

・「歓喜の歌声とともに」→「繁栄の中に」

68:7 神よあなたが御民に先立って出て行き荒れ野を進み行かれたときセラ

68:8 地は揺れ動き天も雨を降らせました。シナイにおられる神の御前で。イスラエルの神である神の御前で。

 これは、出エジプトのときのことです。山全体が激しく震えました。神の御声が地を震わせたのです。

 また、天が雨を降らせました。焦げつく地と対比して、御言葉が与えられたことを表しています。

※震えるについて

出エジプト

19:18 シナイ山は全山が煙っていた。主が火の中にあって、山の上に降りて来られたからである。煙は、かまどの煙のように立ち上り、山全体が激しく震えた。

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 これについては、次の聖句で説明されていますが、神の御声が地を震わせたのです。

ヘブル

12:25 あなたがたは、語っておられる方を拒まないように気をつけなさい。地上において、警告を与える方を拒んだ彼らが処罰を免れなかったとすれば、まして、天から警告を与える方に私たちが背を向けるなら、なおのこと処罰を免れられません。

12:26 あのときは御声が地を揺り動かしましたが、今は、こう約束しておられます。「もう一度、わたしは、地だけではなく天も揺り動かす。」

12:27 この「もう一度」ということばは、揺り動かされないものが残るために、揺り動かされるもの、すなわち造られたものが取り除かれることを示しています。

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 これは、神様が律法を与えることと関係しています。神の御声なのです。神の御声の前に震えたのは、イスラエルの民です。彼らは、その言葉に耐えることができませんでした。

 そして、雨が降るというその出来事は、シナイの山でのこととして示されていますが、出エジプトの記事にはありません。これは、比喩です。地を揺るがした神の御声と雨は、御言葉の比喩です。御言葉は、事を判別します。揺り動かされないものが残るためです。そして、雨のように命を育むものです。

68:9 神よあなたは豊かな雨を注ぎ疲れたあなたのゆずりの地を堅く立てられました。

 その雨は、譲りの地を堅く立てます。その地は、疲れた地と表現されていますが、豊かな実を結ぶ地ではなかったのです。それは、霊的な比喩になっていて、神の前に実を結ぶことのない異邦人の支配にあったのです。

 しかし、それを雨で潤されます。通常、豊かな雨は、地を柔らかにし、土砂崩れも引き起こすのですが、その地を堅く立てるというのは、実り豊かな地とすることを表しています。

68:10 あなたの群れはその地に住みました。神よあなたはいつくしみをもって苦しむ者のために備えをされました。

 神は、神の前に謙り、御言葉のうちを歩む者に対して、御心に適うものをもって備えをされます。備えるものは、人の観点からの幸いというようなものではなく、神の御心にかなった良いものです。

・「いつくしみ」→「御心にかなったもの:名詞」

・「苦しむ者」→「謙る者すなわち神の言葉を受け入れ、従う者。」単に苦しんたからといって、主は、答えることはない。

68:11 主はみことばを与えてくださる。良き知らせを告げる女たちは大きな群れ。

 主は、御言葉を与えてくださいます。その御言葉は、良き知らせとして女たちによって告げられます。この女たちは、信者の比喩です。しかも、彼らは、大きな群れです。主は、民が実を結ぶために御言葉を与えられますが、それは、それを宣べ伝える者たちによって民に伝えられます。その数が多いのは、神の熱心によります。

68:12 軍勢の王たちは逃げまた逃げる。家に残った女たちは獲物を分け合う。

 軍勢の王たちは、悪魔の比喩です。彼らは、民がみことばの内を歩むことで逃げるのです。「逃げる」という語が二回続けて記されていることで、彼らが一目散に逃げる様子が表現されています。

 その王の支配のもとにあった者が家に残され、彼女らは、それを分け合います。悪魔が支配していたものは、民です。それを獲物として獲得することになります。その人々を神に従う者たちとするのです。

68:13 羊の囲いの中に横たわるとしてもあなたがたは翼が銀でおおわれてきらめく黄金で羽がおおわれた鳩のようだ。

 彼らは、羊の群れです。囲いの中に横たわりますが、主の言葉に従っている者たちで、主のものであることを表しています。

 彼らが翼を持っていることで、天的存在であることが表されています。そして、彼らは、鳩であり、主の言葉に対して従順な者として表されています。

 その翼は、銀で覆われています。銀は贖いを表していて、新しく生まれた者としての歩みを表しています。もはやこの世に属するものとしてではなく、肉によらないで、御霊によって歩む者たちであるのです。

 羽毛は、黄金で覆われています。黄金は、義です。聖い歩みが義とされています。義の実を結んでいるのです。

 その黄金に関しては、きらめくと形容されています。これは、緑色のことで、命に溢れていることの比喩です。御言葉によって生きる者に義の実が結ばれ、命が溢れていることを表しています。

・「きらめく」→緑がかった。緑。命を養う草の緑を表す。

68:14 全能者が王たちをその地で散らされたときツァルモンには雪が降っていた。

 ツァルモンは、陰が多いという意味です。全能者が王たちを追い散らしたことは、神の義によります。

 雪が降ることも神の業て、それが併記されることで、王たちを追い散らされた業も、雪を降らせる業も全能者によることが示されています。そして、雪が降ったことは、、神の業によって、陰が覆われ真っ白になったことを表しいて、神の義を表しています。神の正しさを現すための業であるのです。

 ツァルモンは、シェケムの近くの山と考えられます。

士師記

9:48 アビメレクは、自分とともにいた兵全員とツァルモン山に登った。アビメレクは手に斧を取って木の枝を切り、これを持ち上げて自分の肩に担ぎ、ともにいる兵に言った。「あなたがたは私が何をしたかを見ただろう。急いで私と同じようにしなさい。」

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68:15 神々しい山バシャンの山よ。峰を連ねた山バシャンの山よ。

 →「神々の丘、バシャンの丘。こぶを連ねたバシャンの丘。」

 神々という表現が用いられているのは、次節との関係です。そこには、神が住まわれるシオンの山とバシャンの丘が対比されています。妬み見るのは、バシャンの丘の神々なのです。実際にそのような神々は存在しないのですが、論理的な対比のために神に対して神々という存在を引き合いに出しています。それは、二十二節にもバシャンについて記されていて、神の対抗勢力として取り上げられています。バシャンは、悪魔あるいは悪霊の支配にあるもののことを表しています。詩篇二十二篇で、バシャンの牛は、悪魔の支配にあって悪魔に仕える勢力を表しています。彼らは、実際は、イエス様を十字架にかけた指導者たちですが、悪魔に仕えていたのです。

・「山」→「丘」

・「峰」→「丸い丘」

詩篇

22:12 多くの雄牛が私を取り囲みバシャンの猛者どもが私を囲みました。

22:13 彼らは私に向かって口を開けています。かみ裂く吼えたける獅子のように。

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68:16 峰を連ねた山々よ。なぜおまえたちはねたみ見るのか。神がその住まいとして望まれたあの山を。まことに主はとこしえにそこに住まわれる。

 丘の連なりよ。神がそこに住むことを望まれた山を妬み見るのか。これは、シオンの山のことです。バシャンの丘と対比されて、彼らが妬み見るという表現により、神が住むことがいかに尊いことであるかが表わされています。

 それを受けて、まことに「主は」そこに住まわれると確認しています。神を主と言い換えることで、存在者としての神を強調していて、生ける神がそこに住まわれていることを強調しています。それは、バシャンの神々との対比です。

・「峰を連ねた山々よ。」→丘の連なりよ。

68:17 神の戦車は幾千万と数知れず。主はその中におられる。シナイの神は聖所の中に。

 神の戦車の数が取り上げられているのは、その力の偉大さを示すためです。主は、その中におられるのです。

 シナイの神と表現されているのは、文の流れから、力強い神を表しています。海を割り、エジプトを打った主として紹介されているのです。その方が、シオンの聖所の中におられるのです。

68:18 あなたは捕虜を引き連れていと高き所に上り人々に頑迷な者どもにさえ贈り物を与えられた。神であられる主がそこに住まわれるために。

→「あなたは、捕虜を引き連れて高き所に上り、人々から、また、反抗する者からさえ贈り物を受け取られた。」

 エペソ書では、この箇所は、賜物を「与えた」という意味で引用されています。しかし、ヘブル語詩篇では、「受け取られた」となっています。

 主に対して贈り物をしたのは、恭順を示すためで、主がそれを受け取られたことは、受け入れられたことを表しています。

 その理由が示されていて、神である主がそこに住まわれるためです。人々の間に住まわれるためです。主が受け入れられない人の間に住むことはできません。

 この贈り物は、彼らの恭順を示すものとして、「信仰」です。

68:19 ほむべきかな主。日々私たちの重荷を担われる方。この神こそ私たちの救い。セラ

 私たちを受け入れた方は、私たちを担ってくださる方です。そのような神こそ、私たちの救いです。この救いは、受け入れたことが前節に記されていますし、信仰の歩みの間、担ってくださることに関して救いと言っていますので、これは、信仰の歩みを支えてくださることを言っいます。そして、御国において報いを受けるのです。

・「私たちの重荷を」→「私たちを」

68:20 神は私たちの救いの神。死を免れるのは私の主神による。

 その観点から、救いの神が死を免れさせるのは、肉体の死のことではありません。肉体の死は誰でも経験するし、神に従っている者が死なないことはないからです。

 この人は、神を私の主神と言い表して従っている人です。そして、これは、神が支えてくださるときに経験することがない死について言っていますから、これは、信仰の歩みに躓きについて言っているのです。

68:21 神は必ず敵の頭を打ち砕かれる。自分の罪過のうちを歩む者の毛深い脳天を。

 敵は、罪過の内を歩む者です。彼らは、毛深い頭をしています。その脳天を打ち砕かれます。

 毛深いことは、自分を覆うことを表しています。しかし、それは外見上だけで信仰による従順はないのです。打ち砕くのは、高ぶっているからです。神の言葉を聞くように見えて、神の言葉を受け入れない高ぶりです。

68:22 主は言われた。「わたしはバシャンから彼らを連れ帰る。海の深みからも連れ帰る。

 バシャンは、悪魔の支配下にある者たちのいるところです。そのような敵対勢力の中から連れ帰ります。

 海の深みは、神の言葉に従わない者たちのことで、その最も深い所からも連れ帰られます。

 そのように、神に逆らう者たちの中から連れ帰られます。

68:23 あなたが彼らを打ち砕き足を血に染めあなたの犬たちの舌が敵の血をなめるために。」

 それは、彼らが敵を打ち砕くためです。犬たちは、価値ないものを表しています。その犬に血をなめられることで、彼らの命が全く価値がないことを表しています。そのように、神の前に逆らう敵は、価値ない者として打ち砕かれるのです。

68:24 神よ人々はあなたの行列を見ました。聖所で私の王私の神の行列を。

 聖所は、神の臨在の場所ですが、そこで、神の行列を見ました。神については、私の王、私の神と言い表しています。この方に服従する中で、その栄光を見たのです。

68:25 歌い手が前を進み楽人が後に続く。タンバリンを鳴らすおとめたちのただ中を。

 それは、人々の賛美のうちに進みました。

68:26 「相集って神をほめたたえよ。イスラエルの泉から主をほめたたえよ。」

 賛美が神にふさわしいから会い集って神を褒め称えるのです。

 「泉」は、聖霊の比喩です。ここでは、賛美の出処が示されています。選ばれた民イスラエルの泉です。賛美は、聖霊によるのです。なぜならば、賛美は、主を知るところから出てきます。知識に於いて、歩みを通して主を知ることはすべて聖霊によります。そして、神の御心にかなった祈りは、聖霊によります。

68:27 そこには彼らを導く末子のベニヤミンがいる。その群れの中にはユダの君主たちゼブルンの君主たちナフタリの君主たちもいる。

「ベニヤミン」→右手の子すなわち力

「ユダ」→褒め称える

「ゼブルン」→ともに住む

「ナフタリ」→勝つ

 それは、神様の栄光に関して、その名が挙げられています。

68:28 あなたの神はあなたの力を現れさせました。神よあなたが私たちに示された力を。

 これは、ベニヤミンの名に関連しています。それは、神の力の現れです。その力を私たちに示されたのです。

68:29 エルサレムにあるあなたの宮のゆえに王たちはあなたに献上品を携えて来ます。

 身分の高い王たちも、献上品を捧げることで、神に栄光を帰しているのです。それは、褒め称えることです。

68:30 葦の中の獣を叱ってください。国々の民の子牛を連れた雄牛の群れを。彼らは銀の品々を踏みつけています。戦いを喜ぶ国々の民を散らしてください。

 葦は、預言者の比喩です。獣としての彼らは葦の中にありながら、神に従わない者たちです。彼らについては、叱ってくださいと求めています。神の言葉を聞き、従うように叱るのです。

 子牛を連れた雄牛は、本来はしもべの姿を表しています。しかし、彼らは、銀の品々を踏みつける者たちです。銀は、贖いと関係していて、新しく生まれた者としての歩みを表しています。神の言葉に対して従うのです。しかし、しもべであるはずの彼らは、神の言葉に従う器としての人々を踏みにじっています。国々の民は、そのように神の御心にかなった者たちを踏みにじる者たちであり、戦いを喜ぶ者たちであるのです。彼らを散らして下さいと。

68:31 貢ぎ物はエジプトから到来しクシュは神に向かって急いで手を伸ばします。

68:32 地の王国よ神に向かって歌え。主にほめ歌を歌え。セラ

 神への賛美は、全世界からのものです。これは、ユダに対応しています。エジプトは、貢を捧げ、クシュは、神に向かって手を伸ばし、祈ります。

68:33 いにしえから天の天を御される方に。聞け。神は御声を発せられる。力強い御声を。

 その賛美は、古から天を御される方に向けられるのです。それは、地とは比べ物にならない天の支配者としての神です。

 その神は、御声を発せられます。「聞け」と呼びかけられていますが、その声を聞けという意味ではありません。これから言うことに注目せよという意味です。その声は、力強い御声であり、その声で事を実現されるのです。

・「聞け」→「見よ」

68:34 力を神に帰せよ。威光はイスラエルの上に御力は雲の中にある。

 神は、イスラエルに対して威光を現されます。その力は、雲の中にあり、天からの働きなのです。

・「威光」→尊厳、威容

68:35 神よあなたは恐るべき方。あなたはご自分の聖なる所におられます。イスラエルの神こそ力と勢いを御民にお与えになる方です。ほむべきかな神。

 神は、恐るべき方です。なぜならば、聖なるところにおられるからです。聖なるところは、天です。そのような方が、力と勢いをイスラエルに与えられるのです。ですから、ほむべき方なのです。遥かに高い天から、地のあらゆるものを超越して事をなさる方であるからです。